私は如何にして心配するのを止めて金沢をこわがるようになったか

タレルの展示がどあほくさい21st mus.

さほど軟派にもみえないにいちゃんにより、
ナンパを成功させつつの
「やっぱ面識のある飲めない子より面識のない飲める子とのほうがいいっすよ」なんて至言が
交差点で信号待ちしているあいだに吐かれるおそろしか街であった。
(あと異様に店員などが粗野な空気。あと109のあることがたぶん住民の誇り)
かえってきたら前のいえのおやじ*1ふく口笛が
20年来の月月火水木金金から「野ばら」になっていたので
やっぱり金沢はなんかあるな、と。



金沢コミュニティシネマ主催フレデリック・ワイズマン映画祭*2
(於金沢21世紀美術館*3
『福祉』(Welfare/1975)
『チチカット・フォーリーズ』(Titicut Follies/1967)
『霊長類』(Primate/1974)
『DV』(Domestic Violence/2001)



えー、
1年に1度のペースでしか
スクリーンをお目にかからんうちとしては
まったく「コミュニティシネマ」以外のなにものでもない、
友達ではないが映画場で見知りあったらしい人たち(むろん待ちあわせちゃない)が
毎回5組は軽くあいさつしあっているような祝祭空間がなんつうか。
それと関係あるかないかしらんが
適度なポイントで笑ったりする
噂の絵にかいたシネフィル連中のうざさというのもはじめてまのあたりに。
こいつらにいらつくべきか、
こういう死ねシネ団*4が集まってくるところでしかワイズマン映画を見れんことにいらつくべきか
ないまぜ。
まあうちはそんなことでむかついてられるほど偉くもないので
きちんと映画をみることに。
とにかく見た映画はだいたい凄かった。
あと生はすみんもそれなりに凄かった。
(アジもはったりも勘違いもかましまくればなんかだなと)





備忘録の備忘録
「映画の極道」ワイズマンについて



A
はすみ先生*5仰るとおり
ワイズマンの映画は単なる映画であって
ドキュメンタリーではない?

1)カメラの前でおこる"いま"
2)1)をワイズマンが発見し表象する"いま"
3)2)を見ている"いま"
以上みっつの"いま"は
表象された"いま"に対し表象自体が、
また、上映されるまで見れない以上映画という表象に対し観客が、
それぞれいつも持っている遅れによりずれ、
しかしいつかのいつかがあくまでいつかのままこの映画館の中での"いま"となるような形で
すべて重なっているということこそ映画の定義である。
この重なりに劇映画とドキュメンタリーの差がない以上
ワイズマンがつけないでおく、
表象された"いま""ここ"が
厳密には何年のいつなのかというキャプションやナレーションは無意味。



B
ワイズマンの映画にはなんの問題提起もなく
問題はみなさまでお考え下さいというような
開かれたようなふりをする気配もなく、
えた何かを高いとこから教える気もないどころか
自分で学ぶ気すらなさそうに思えるのは
はすみんがいうように
「みんなで"いま""ここ"でおこっていることを見てみましょう」という気持ちからだけではなく
"いま""ここ"がかのように"いま""ここ"となったという原因のようなものには
ワイズマンが実はほとんど興味がないからだ。
『福祉』や『霊長類』なら福祉局や研究所、
『DV』なら駆込み寺としてのシェルターを中心とした「DVが発生・存続する磁場」と、
ひとつの映画ではひとつのコミュニティの"いま""ここ"がただ撮られているだけである以上、
早朝から生活保証のため歩いてやってきた人間をたらいまわしにしてたり
猿に電圧をかけて交尾させたり射精させたりしても、
ただ撮ることにかわりなし。
なので、
「お前みたいな黒人なんてみんなぶっ殺してやる」と
役人に息巻く退役軍人のじじいどころか
まったく「福祉」に関係なさそうな
ぜったいだれだれさんよりあたしのほうが働いてますってなんて
上役でもない同僚にこぼす女の福祉局役人もうつす。
うつすだけならもちろんフィルムがむだになることもあるけど
なぜか編集で残す。
このカットにまつわる作業の流れは
カメラの前の"いま""ここ"には問題提起どころか道徳も関連性も必然性もあるかいということなので
つまりおっさんの"いま""ここ"至上主義。こわい。
(だからこそ、
弁護士資格をたてに、撮影する一般人全員と
あらかじめ「あとでなに言っても完成版からは削りません」とかわす契約は
貴重なフィルムのむだやらアメリカじゃやかましい肖像権うんぬん以前に、
ただ単にもうおやじが周到でこわい)


ほいのほいの補遺
たとえば
「ぜったいだれだれさんよりあたしのほうが働いてますってなんて
上役でもない同僚にこぼす女の福祉局役人」の存在は、
ドキュメンタリーと政治という文脈で
まえにほんのちょっとあたまを占めていた
ぬぐいきれない「映されているわたし」の意識と政治性ともに
ドキュメンタリーはドキュメンタリーたりうるかという問題なんかは
ワイズマンがやはりドキュメンタリストであれまた単なる映画作家であれ
存在しないも同じにかるくとびこえとんなと感じさせるものだった。
つまりわしの古い問題を『福祉』の該当部におくと
「使われないかもしれないけど使われれば削ってはもらえない撮影で
わざわざそんなこと口にするのはカメラがあるからではないのか」ということになるが
神の目がワイズマンにない以上"いま""ここ"を記録できるのはカメラなので
「映されているわたし」があるのはしょうがない、しょうがなくないではなく
記録されるさいの自然な状態にすぎないということから。
もちろん、これが自然な状態であることをも示せるようなカットを
ワイズマンはあえて残したというふうにもいえる。

*1:ほれあれよ、帰宅したところを近いうち捨てようと思って玄関に出してたベッドマットに押しつぶされて圧死寸前っつうわしの芝居(母親はスルー)をこっそり見てて次の日大変だったな娘さんなんて泡とばしたおっさんな

*2:http://www.geocities.jp/com_cine/wiseman/index.html

*3:http://www.kanazawa21.jp/

*4:死ねお前らみたいなシネフィル集団はの略です、むろん

*5:と、この敬称が冗談でもなんでもなく通用する場でしたよ!