これから考え直す日記

おばちゃん最終作見てぼろ泣きよ

鈴木則文の『トラック野郎風雲録』に、
というよりも
そのなかで気づかされた、
ヴィデオが映画史という概念を生んだのだということ、
ゴダールの『映画史』をわざわざ見にソニータワー*1までいったくせに
なんでこれフィルムで撮らないんだ?とぶつくさ言いこそすれ
なーんも考えず見てたこと、
いや子供のころの恥なんてどうでもいんだよ、
いまここだよいまここで何もわかっちゃいなかったことにだいぶショックをうけ、
まじめに映画ブログでも書くことにした。うそだけど。



  • 今期のイミテーション銀幕

『迷宮の女』(ルネ・マンゾール/2003)



映画で多重人格を別の俳優で見せきって落とすだなんて
オプティカルにいけない。
目に見えるものが映画の第一義であるならば映画の所作ではない。
多重人格というものが本当にあるとして、
それをカメラが撮る場合、
いま現在出てきている人格が誰だろうと、
(あるいは役者に言いわけさせたように
それがpersonageではなくpersonneであろうとと言うべきか)
カメラに映るのはたんなる同じ肉体だろ。
ヴィデオカメラをあちらこちらへむけてみる監督が
そんなこともわからんか。
最悪それどうしてもやりたいなら全人格に別の俳優をあてなきゃ映画にならんでしょ。
とはいえ主演俳優に一世一代の名・演じ分けされても
「あなただけ見えない」*2になっちゃうからアレだけど、
でもやっちゃいけないことはやっちゃいけねえんだよ!



  • 今期のほんほん

さびしさの授業(伏見憲明/2004)



伏見憲明けっこう読むから
ついこんな子供向け思想本にまで手を出してしまったのだけど
"「私」がいなくとも世界はあたりまえのように回っていく"ことの
なにがそんなにか救いようのなく深刻なことなのかが
わしにはいっさいぴんとこない。
んなのはアホくさいとかじゃなくて字義どおりぴんとこない。
おれがどまんなか保坂主義だからかもしれないけど、
自分がいなくても世界が勝手に回るというのは
むちゃくちゃにすがすがしく、
ほとんどいわば
「一が一であるという話に心が洗われる」(黒田硫黄)といったようなものなのだけど。
それをセンターにすえて、
だからこそ誰もがたがいたがいに認知され愛され記憶される必要があるって話にもってく以上、
それが深刻である理由の説明をしてくれフォーミー。
ほんと、それこそしてくれ。
おれみたいなガキもきっといるぜ。
種を残したい人の考えかたなのか?
もやもやしてしまった。



  • 今期のぴこぴこ

ウイニングイレブン2010蒼き侍の挑戦PS2



ぽっと押したら華麗にぽ、

フリーランで勝手に

ヘッドでぎゃ、

とかしてくれや!!!!

メッシはそんな

深く行動してへんぞ!!!

*1:いまもうないのな、ビルごと。メタボメタボと言ってもメタボリズム自体が終わっていてよ

*2:あれのせいでいまだにキリル文字がちょっとこわい